技法以前に

 さて、私は音楽は全人格的なものであると考えている。あるいは言い方を替えると人間そのもの、生き方そのものであるとも言える。

 人間の生き方として技法や知識が必要なことは言うまでもない。それは生活を快適にし、物事を理解するのに欠かせない物である。技法によって多くの工芸作品が生まれ、工業製品は安心して使用できるようになった。表現の幅も増え、文化の豊かさを享受することができるのも多くの技法が開発されたためである。知識も知の分野の技法と言えるかもしれない。これらが豊富であるとそう、ちょうど手持ちのカードがたくさんあるのと同様の余裕やバリエーションをもたらす。

 料理を取り上げて考えてみよう。多くの素材の知識を持ち、多くの技法を身に付けた料理人の料理は文明の豊かさに似ている。素材を厳選し、最小限の調理で最大限の奥深さを表現しようとする弦楽四重奏や邦楽のような日本料理もあれば、ありとあらゆる食材と調味料を組み合わせオーケストラの様な料理をするヨーロッパ型の料理もある。

 が、総じて私は料理らしい料理をしていない物が好きなのだ・・あらゆるリンゴ菓子よりはリンゴそのものを丸かじりするのが好きだし、マグロもブツ切りが一番よろしい。トウモロコシもゆでただけがおいしいし、料理の技法を極力少なくした物に惹かれる。一番うまいものは水である。次に好きなのは水の香りの生きたもの。ミズ(と当地では言っている山菜)のたたきは極上のすがすがしさを持つし、盛りそばが好きなのも水の香りとのど越しのためである。野菜はどれも大変によろしい。魚は生で食えなければ焼いたもの・・トロは別に一生喰わんでも新鮮できれいな赤身の方がはるかに良い。白身の刺身がなお旨い・・

 なべ物煮物は概して苦手である。味噌汁も別になくても不便はない。澄まし汁やかつお節を振った上に醤油を少々の後は湯だけで、結構美味に感ずる。中華料理や肉料理はあまり積極的には食べない。大概がくどくて(評論家などが爽やかなどと言っても喰ってそうだったためしはない・・)喰えなくはないがその後大変に辛い思いをすることが多い。

 と、かように私は素材嗜好であり、混ぜ合わせたものに嫌悪を感じることが多いのだ。だから、和声的なアプローチがそもそも苦手である。和音の美という美意識がすっぽり抜け落ちているかのようだ。

 私の音イメージにはいつも荒野の中に一本だけ立ちつくす針葉樹のような、あるいはその身に雪以外の夾雑物をまとわりつかせることを拒否している岩だらけの高山のようなものがある。

 音を積み重ねたり、時間軸に沿って音を連ねることの必要をあまり感じない。

 そこに人が立ち、「トーン」と出したその音でその人の全部が見えそうな、そんな音世界が大変に魅力的に感じるのだ。だから技法をつくし音を重ね、言い訳するように次々に音を繰り出してくるものにはどこかなじめないものを感じるのだ。

 音楽において素材とはなんであろうか・・楽器のことか、音素材のことか。いや、私は人間の生き方そのものであると思えるのだ。だから、技法を凝らさずとも必ず味わうべきものがあり、場合によってはそれのみで多くの人を感動させ得る。人と人が接する上で技法が無用であるように(いると言う人もいるが・・)音楽も自分自身を深く探索したならば技法無くとも必ず人を感動させ得る。

 これは会話を考えればすぐに理解できる。話芸には浪曲や落後・漫才など歴史と技法・アイディアを尽くした高度なものが存在する。また説得術やセールストークの技法、商談術など、実用の世界でもやはり高度なものが存在する。教養ある人の話は確かに縦横無尽である。が、雛の老人の朴訥な、決して流ちょうでない話でも感動することはできるのだ。つまり語るにたる人生を送っているか、送ってきたか、これこそがもっとも重要なのだ。語るに足るものを持つ人の表現はいかなる表現分野でも必ず聞くに値するものであり、それ故技法というのは場合によっては邪魔すらする場合があるのだ。技法はそれだけで単独して存在しうるし、いわゆる指癖に近いものに堕しやすい。確かにきらめく輝きをもたらす場合もあるが、輝くだけの中身無しと言うものも相当にある。技芸はそれだけで感動を呼び得るが、スポーツの感動に近くなる。魂と魂の共感などというものとはこれはちょっと違うであろう。

 もちろん、魂の共感を得るための最低限の表現技法というのは当然あり、そう、例えば日本人に語りたいならとにかくも日本語はある程度喋れなければならない。あとは、言葉を繋ぎ繋ぎでもなんとか気持ちは伝わる。

 同様に、音楽でも多少はとちりながらも心を載せるための発音部分に関する技法というのは必要だ。えてしてこの部分が相当な演奏者でも抜け落ちている場合もあるのだが・・

 何を伝えたいのか、伝えるべき何かを持っているか、ひいてはどう生きているのか生きようとしているか、それをどう語りたいのか、その欲求があるのか否か・・こうしたことが音楽に私を向かわせるか否かに通ずる。